自叙

ドロの日記:アイドル願望と私の信仰心

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イントロ

ドロです。今日は、私の信仰の話を聞いて下さい。

私は、まだ、教会に行ったことがありません。
多くの日本人と同じく、宗教を学んだこともなく、欧米での宗教の実態も知らないため、信仰のレベルについては、初心者未満です。

今月、2024年11月に入ってから、信仰についてたびたび考えています。
その記録を残します。

11月7日の考え

この考えは信仰とは関係がないようですが、後で話すことの下地です。

私は非常に野心的で、自分の夢を最優先に動いています。その夢の生産性について、今日はこれでいいのか、努力が足りない気がする、という不安を、いつも覚えています。

その不安に対応するために、考えました。

ポジティブ心理学で明らかになっているように楽観主義がパフォーマンスを向上させます。gritの前に興味関心がなければ、gritは生まれません。自己批判は生産性を下げ、セルフコンパッションは生産性を上げます。
つまり、のびのびと興味を持って邁進すれば生産性が高いということなのです。私はそう理解しました。
興味が育つ前の段階では無理をしないこと。

これを踏まえると、努力が足りないという不安は生産性の糧にはならないということです。

とはいえ、コンフォートゾーンから出る必要はあると思います。
そこで、1日に数回、コンフォートゾーンから出たスモールステップを踏み出せばいいのだと結論付けました。

その日は、それで終わりました。

11月9日の考え

9時半までゲームをするつもりだったのに、11時半までやり、気分が下がりました。

気分が下がったのを検知して、対応するために考えました。

とりあえず、言葉にしてみました。「私は意思に反してゲームを2時間多くしてしまった」…あまり効果はありません。

以前からですが、セルフコンパッションの、自分で自分を慈しむというのは、苦手です。変な感じがするし、慣れないし、やりにくいです。

でも、思いつきました。前にもやったやり方。神という超越的な他者を想定してみましょう。

神さまへ。今日は意思に反してゲームを2時間多くしてしまった。それで惨めな思いをしました。

そのように、人間性の神にお祈りしてみると不思議に効く感じがします。

セリグマンによればうつ病は個人主義の病気です。自分の不甲斐なさ、愚かさの一部を神に共有することは、個人主義と自己批判を緩和します。

今まで私は、セルフコンパッションを実践するときに、尊厳という意味合いでの個人的な神を想定していました。人のかたちの神ではなく、ヒューマニティの概念そのもの、という感じです。これはオリジナルに近いです。私がネフの本から読み取ったものですから。

でもこの時、既存の宗教や神で使えるものはあるのかと思いました。

そうです、ここでやっと宗教の話になります。

私の美的好みからして、(不純な動機)、キリスト教がいいのですが、戒律のイメージがあります。

戒律と無条件の愛は両立するのですか?

AIにそう聞くと、放蕩息子のたとえを教えてもらいました。神は、律法にそむいた人をゆるします。

これはびっくりしました。神はなんと偉大で、寛大なのか。そして、ということは、朝早く起きられなくても、共同生活が苦手でもなれる、教会や関連する役割はあるのだろうか?

以前シスターについて調べたとき、シスターになるには、共同生活ができ、清貧の覚悟ができないといけなくて、私にはその資格がないと言われている気持がしていました。
でも、シスターという厳密な職ができなくても自分のできることで貢献すれば、いいのかもしれない。

教会が、私の想像している通りに、ブレネー・ブラウンやハース兄弟の言うようなものに近い、怠け者とみなされる人間性を思いやり救う理論を打ち立てているのであれば、教えを広めることで日本を救うことに寄与したい。私がマーケティングを学び、教会を必要な人に届ける手伝いがしたいと思ったのです。手伝いができたら、もうそれは、アイドルの夢に並ぶもう一つの夢だ。

あなたがたが早く起き、おそく休み、/辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、/なくてならぬものを与えられるからである。
ー旧約聖書『詩編』127篇 002節 口語訳

私が強い夜型のクロノタイプで、早起きできなくて、それによって社会から叱責され(ると私が信じ)ても、神だけは、許してくれるのです。

11月11日の考え

この日までに、信仰が、アイドルと並ぶ、私の人生における第二の夢になるかもしれないと思っていました。そして、今できつつある個人的な信仰も大切だと思いますが、同時に、教会というコミュニティにも、参加したいです。そして、牧師さんと議論をし、考えを深めたいと思います。

どの宗派が私にあっているのかを考えます。

私の宗教的態度を書いてみます:

私の第一の信じるものは科学であり、スピリチュアリティが2番目です。こんなことを言うのはたいへんですが、神の存在を積極的に信じているわけではありません。インテリジェント・デザインには反対の立場です。

重視することは、人が苦しい世界を適応できるよう手助けすることで、規律はそのために役立つものでなければならず、融通の効かないルールには反対です。神の機能は、人が自分に過度に責任を課さないですむように責任を肩代わりすること、人が生まれてきたことを祝福すること、そして、神に見られているという意識から美徳の生み出すこと、ととらえています。

伝統的な礼拝は文化的な価値があります。しかし、新しい信者にとっての障壁ともなるため、伝統的なものと自由形式のものを併用するのが良いと思います。

教会には、コミュニティ機能や、行動の場としての役割が間違いなくあるでしょうし、それを期待します。

内的スピリチュアルな経験を重視します。実感がなければ信仰も生まれないと思います。ただし、盲信は危険です。

倫理は人間の霊的な本質だと思います。

ここでいうスピリチュアル、霊的とは、占いではありません。私の意見では、スピリチュアルとは直観です。本人が啓示だという感覚、尊い感覚を持っていたらそうなのだと思います。完全に私の持論ですが、ホモ・サピエンスには、生物学的に、ピキーンとくる機能がインストールされていると思います。シャーマンの使うアヤワスカがそれを活性化させて、抗うつ効果があります。日光を浴びたらビタミンDが生成される機構が生物的に存在するように、ピキーンときたら充足感を得る神経回路があるんだと私は想像しています。

どの宗派があうかは、これからの学習によって判断することにしましょう。

終わり

イエスは人々に、彼の弟子となるには、自分の持ち物のすべてを捨てる必要があるといいました。私の第一の夢は、自分の持ち物そのものです。きらびやかな服で飾り、自分のファンベースを構築して、そこからもらった賞賛が私の宝物です。これではエゴのかたまりです。おそらく律法にもそむいています。私は彼の弟子にはなれません。

それでも神は愛してくれます。神の愛のもとで生きることには安心感があります。信仰により私はより価値のある人生を送れると思います。まずは信仰により自分自身を助け、そのあとで他の人を助けたいです。私の信仰との関係はそういうものです。

アイドル願望という賞賛への依存を、信仰が和らげてくれるのです。私の本質はアイドル願望ですが、信仰はそれを補います。

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